Henselt【Etudes Op.2/Op. 5】ヘンゼルト エチュード 作品2/作品5

Henselt【Etudes Op.2/Op. 5】ヘンゼルト エチュード 作品2/作品5

Henselt「Douze Etudes Caracteristiques de Concert, Op.2/Douze Etudes de Salon Op. 5」Piano

出版社: Prhythm Edition
原文書名: A. Henselt Etudes Op.2/Op. 5
商品編號: 9784904231357
編訂者: 幅至
庫存狀況: 尚有庫存
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【簡介】
 ヘンゼルトはショパン、リスト、アルカン、タールベルク達とともにまさにロマン派ピアノ音楽の中心的存在であり、当時のピアノのテクニックと表現法の限界で作曲し、ロマン派ピアノ音楽の地平を押し広げていました。また一方でサンクトペテルブルクに居を構え、ロシア・ピアノ学派の開祖として君臨し、後の世代に多大な影響を及ぼしました。
イギリスのピアニスト、ロナルド・スミスはその著書の中でアルカンのことを「エニグマ(Enigma)=謎」であると評しましたが、現在ではその「謎」のヴェールは少しずつ剥がされ、認知されてきています。そういった意味ではヘンゼルトこそが「エニグマ」とも言えるでしょう。このエチュード集を演奏、体験することにより、皆でその「謎」に挑み、ピアノ音楽のレパートリーを広げてはいかがでしょうか。
著者について
 アドルフ・フォン・ヘンゼルト(Adolf von Henselt, 1814−1889)は現在のドイツ、バイエルン地方のニュルンベルクの南に位置するシュヴァーバッハという小さな町に生を受けた。彼が3歳の時に一家はミュンヘンに移り、5歳の時からバイエルン王ルートヴィヒⅠ世と関係のある音楽家、ゲハイムラティン・フォン・フラットのもとで音楽を習い始める。ルートヴィヒⅠ世はヴァーグナーのパトロンとして有名なあの「狂王」ルートヴィヒⅡ世の父であるが、ヘンゼルトは1831年に王から奨学金を賜り、ヴァイマールへ行き、ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel, 1778−1837)のもとで6ヶ月間ピアノの研鑽を積み、1832年11月29日に華々しくデビューを飾る。その後ウィーンへ赴きシモン・ゼヒター(Simon Sechter, 1788−1867)のもとで2年間作曲を学ぶ(ゼヒターはブルックナーの師として有名だが、他にタールベルクなども彼のもとで学んでいる)。ジギスムント・タールベルク(Sigismund Thalberg, 1812−1871)の演奏に触れ、ヘンゼルト独自の奏法を身につけるべく隠遁生活を送る。伝記作家のラ・マーラによれば、1836年に神経衰弱の療養に向かったカールスバートでショパンにめぐり会ったとされている。その後ヴァイマールのフンメルのもとに戻るが、ロザリー・フォーゲルと出会い大恋愛の末に結ばれる。この出来事は作品3の『愛の詩(Poème d’amour)』に結実している。ドイツ国内を演奏旅行して絶賛され、1838年にはフンメルの弟子でもあったロシア皇帝の娘、マリア・パヴロヴナの後押しで当時のロシアの首都、サンクトペテルブルクに赴き伝説的なコンサートを行う。この時に演奏されたのが他ならぬ作品2と5の24のエチュードであり、当時最高のヴィルトゥオーソとして前代未聞のセンセーションを巻き起こした。この大成功がきっかけとなり即座に宮廷ピアニストの地位を得、この地に居を構えた。その後は公の場での演奏は稀になり、ごく限られた音楽エリートの前でのみしか演奏しなくなったが、その演奏は常に驚異的であった(この状況はどことなくピアニストの中のピアニストと言われたレオポルド・ゴドフスキーを連想させるが、現在では彼の作曲物は手軽にアクセス可能であり、楽譜、CDも多数発売され、その存在と名前がヘンゼルトとは異なり再認識されている。ゴドフスキーはヘンゼルトの作曲した『子守唄(Wiegenlied)作品45』の録音を残している)。そこで彼の演奏を聴きたければ彼の弟子になるしかないとまで言われた。
コンサートは稀で、更にリストを驚嘆させた恐るべきヴィルトゥオジティも相まって、彼の存在は生前から文字どおり伝説的なものとなった。しかし何故公の場での演奏から退いたのか、様々な説がある。極度に神経質でステージ・フライトが強かったと言われているが、一方で同僚のピアニスト、リストなどの前では堂々と演奏している。しかしピアニスト、アレクサンダー・ドライショック(Alexander Dreyschock, 1818−1869)による有名な逸話もある。ある日ドライショックがヘンゼルトを訪ねると、扉越しに誰も真似できないような美しいピアノの音色が聴こえてきた。一つの音が次の音へと次々に解け合ってゆき、レガートでしかも明快に響き渡り感情に満ちていた。曲が終わったので部屋に入り、何を演奏していたのかと問うたところ、作曲中の曲との答え。あまりに素晴らしかったのでもう一度演奏して欲しいと頼みこむと、先ほどまで溢れんばかりにあった詩情は消え失せ、しかも甚だぎこちない演奏になってしまったとのこと。この名状しがたい違いは極度の神経質と内気のためとされているが、本当のところは謎のままである。しかし一つの真実は伝えている。ヘンゼルトの演奏は、音の粒立ちが際立っており、しかも詩情に満ちレガートに特徴があること。これはリストを筆頭に当時の大ピアニストたちが異口同音に認めている。一言で言えば、このような特徴が正に作品2と5のエチュードに詰まっているのである。


ヘンゼルトの作品と後世への影響
ヘンゼルトの主要作品は何と言っても作品2と5のエチュード集であるが、作品13にも10曲からなる小品集があり、その中では第2曲の『ゴンドラ(La Gondola)』が素晴らしい。また作品3の『愛の詩(Poème d’amour)』と作品15の『春の歌(Frülingslied)』が作品2、5の延長に位置している。更に作品7、17、34、37の4曲の即興曲、作品31のバラード(1851年作曲)、作品6の2曲のノクターンなどがある。他には作品24のピアノ・トリオ(1851年作曲)などが挙げられる。しかし忘れてならないのが作品16のピアノ・コンチェルト へ短調(1844年出版)である。このコンチェルトはクララ・シューマンが初演し、リスト、アントン・ルビンシテイン(Anton Rubinstein, 1829-1894)も絶賛したが、歴代のピアニスト達がレパートリーにしている。具体的にはハンス・フォン・ビューロー、エミール・フォン・ザウアー、ウラディミール・ドゥ・パッハマン、フェルッチョ・ブゾーニ、エゴン・ペトリ、そしてラフマニノフ等がいる。ラフマニノフは明らかにこのコンチェルトに影響を受け、彼の有名な『前奏曲 嬰ハ短調 作品2の3』の冒頭はヘンゼルトのコンチェルトのピアノ・ソロの入りの最初の左手の下降和音を模したものである。
ヘンゼルトは先にも述べたが1838年以降はその死までサンクトペテルブルクに居を構えて、皇帝からは貴族として叙階され、1863年には全ロシア皇室音楽院の監督官に任命され、この地に君臨していた。彼はロシアのピアニスト、作曲家達、具体的にはミリイ・バラキレフ、セルゲイ・リャプノフなどに多大な影響を及ぼしたが、直接的には有名な芸術評論家のウラディミール・スターソフ(Vladimir Stasov, 1824−1906)やピアノ教師のニコライ・ズヴェーレフ(Nikolai Zverev, 1832-1893)が挙げられる。特にズヴェーレフに関しては、彼はヘンゼルトの弟子であり、ラフマニノフ、スクリャービン、ジロティ、イグムノフらの教師であり、彼を介してヘンゼルトのピアニズムが次の世代へと受け継がれ、ロシア・ピアノ学派として発展していったのである。つまりヘンゼルトは紛れもなくロシア・ピアニズムの開祖といっても過言でないのだ。ヘンゼルトはラフマニノフの祖父にもプライベート・レッスンをしており、孫であるラフマニノフはヘンゼルトの作品をよく研究し、作品2のエチュード、第6番『もしも私が鳥だったら、お前の元へ飛んでゆくのに』を1923年に録音している。この演奏はCDに復刻されているが、非常に端正で優れたものである。


 作品2と5のエチュード集
この2冊のエチュード集はそれぞれ12曲からなり、1837年と1838年に出版された。2冊合わせると24の長短全ての調性を網羅したチクルスをなしている。24のエチュードといえば、ヘンゼルトに数年先立って出版されたショパンのエチュード集、作品10と25があるが、両者のエチュードを弾き比べることにより、ヘンゼルトの目指したところがいかにショパンとは異なるか、かつヘンゼルト独自の世界が展開されていることを実感するはずである。同時代のロシアの偉大な作曲家、ピアニストのアントン・ルビンシテインは、ヘンゼルトのエチュードとピアノ・コンチェルトに取り組んだのちに次のように述べている。「彼の曲は普通とは全くことなる手の用い方によって作曲されている。パガニーニのごとくまさに驚異である。」
 今回の出版に際して底本としたのは、それぞれ「初版」及び「第2版」である。場合によりアーティキュレーション等が同じ音形パターンが現れても記譜されておらず、またsimile(=以下同様に)とも記されていない箇所もあえてそのままにとどめているので、演奏に際しては適宜判断されたい。
 作品2の『12の演奏会用性格的エチュード(Douze Études Caractéristiques de Concert)』の初版は1838年にホフマイスター(Hofmeister)から出版され、バイエルン王に献呈されている。曲ごとに短いフランス語の詩がタイトル代わりに添えられ、それぞれの曲の特徴(=caractéristique)が示されている。当時、caractéristiquesというタイトルのついたエチュード集が多く出版され日本では一般的、習慣的に「性格的」と訳されているが、その真に意味するところはいわゆる指の機能的修練を目指したエチュードとは違い、各曲が一つの独立した楽曲としての特徴を担わされている、という点にあると思われる。


Douze Etudes Caracteristiques de Concert, Op.2

Douze Etudes de Salon Op. 5


ISBN9784904231357
總頁數143
記譜法五線譜(一般)
原文語言日文
特徵西洋古典
樂器鋼琴
裝訂平裝
形式
外型尺寸大於A4 樂譜常用尺寸

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